松田哲也 プロフィール

1965年1月生まれ。PL学園高校、早稲田大学社会科学部。

早稲田大学雄弁会82代幹事長。

約10年間の民間企業勤務などを経て、

手塚仁雄 (元野田佳彦内閣総理大臣補佐官) 公設秘書、

松本剛明 (元外務大臣,当時党政調会長) 公設秘書となる。

2007年目黒区議会議員 初当選。

2011年目黒区議会議員 2期目の当選。

2012年「維新政治塾」第1期卒業。

2015年目黒区議会議員 3期目の当選。

趣味は、サッカー、空手。




幼少期



広島の太田川のほとりで生まれた。母はいつも泣いていた。長崎に帰ると言って。
幼少期に初めて授かる記憶の能力。私のそれは、ここから始まる。

3才の時、両親と兄の4人で東京の御殿山に引っ越してきた。そこには世界のSONY本社があって、巨大なネオンがオールウェイズな町を月より明るく照らしていた。
『8時だよ!全員集合!』のいかりや長介さんが近所に住んでいて、運動会の親子リレーで長さんは超速かったから、私生活でもヒーローだった。

しばらくして、父はどこかに行ってしまった。狭いアパートに残された不つり合い家具とビクターの大きなラジオ。『昭和かれすすき』が流れる、そんな時代に私は育った。

間もなく妹が生まれ、昼はポーラの化粧品を売り、夜は居酒屋で接客をしながら、母は1人で3人を育ててくれた。週末の食卓の食事にはほとんど手をつけず、私たちが争うように食べる姿をいつも幸せそうな顔で見ていた。

母はそれでも明るかった。暑い夏は冷やしたキュウリをおでこに貼って、
「あー涼しい。ほらみんなも」
と仕事に飛び回っていた。
泣いていた人の笑顔の美しさ、多分のギャップも相まってか、その神々しいほどの眩しさをこの頃に知った。それを見ることが自分の幸せになるということを、小さな魂で覚えた幼少期だった。



小学校 ~ 中学校時代



兄や妹に負けないよう、私は小学校から中学校まで全学年を通して、恥も外聞もなく手を挙げて学級委員長、そして生徒会長。
子どもの選挙は、何をやるかより誰がやるかの人気投票。

勉強も懸命にやって、サッカーも地域の活動も何でもやる優等生で、先生や近所の評判はとても良く、母は鼻高々だったはずだ。

しかし、同級生の評判はそれ程でもなく、私の鼻は少々ガタガタ。中学のクラスでは不良グループやお笑いグループが花形になって政権交代。
下唇を出して長さん風に
「ダメだこりゃ」
とつぶやき、第一幕は終了。

中3の春、勉強は一切やめてそっちの世界に転向し、政権奪還を目指す。最初の動機は親孝行だったはずなのに、いつしか親不孝を繰り返すようになっていた。






高校時代



それまで親戚一同は都内の進学校へ進むと信じていたと思うが、それよりも宗教教育でも受けさせて少しは更生させた方がいいということになり、全寮制のPL学園に放り込まれた。
それでも好奇心旺盛な10代の関心は勉強に向かわず、初めての大阪の街で思いっきり羽を伸ばす。
生の関西弁も、餃子の王将も、地下鉄の商魂たくましいアナウンスも、阿倍野のいかがわしい路地裏も、すべてが新鮮だった。

だっだが、高3に上がる前には、さすがにそんな生活にも飽きてきたし、進学にしても就職にしても、ヤマタノオロチが待ち構える社会のとば口がもう目の前に迫っていた。
このままではいけない。長かったパーマネントの髪をばっさり切って、頭を丸めた。野球部がセンバツを連覇で制した春のことだった。
そして、迎えた夏休み。生徒たちにとって親元に帰省し、寮の厳しい規則から解放され好き勝手できる1年で1番楽しい季節だ。しかし、私は東京に帰らず、兵庫県氷上郡の山中で「入江塾」40日間の合宿生活に入った。大蛇に飲み込まれる前に、スサノオの剣を探さなきゃいけなかったから。

そこは中学生の時に自分が行った伝説の塾。そこにあえてお酒もタバコも何も覚えた高校生の自分が、難関高校を目指す現役中学生たちの中に1人混じった。全くついていけなかった。身長も風貌も目立って恥ずかしかったし、情けなくて逃げ出したくてトイレで何度も泣いた。狭くて臭いボットン便所にポットンポットン涙を落としながら、心から家族と天に詫びた。
これが最初の本当の挫折だった。

しかし、だからこそ、敗北感のぶんだけ強い剣を、私はきっと授かった。



大学時代



桜舞い散る1985年の春、あれから2年間の浪人生活を経て早稲田大学に入学。

雄弁会に入ろうと会室の扉を叩いた。新聞は毎日3紙読み込んでいたから、何を聞かれても入会はまあ大丈夫だろうと思いながら。
想像を絶していた。ちっぽけな自負は吹き飛ばされ、部屋から追い出された。それでも食らいついた。もう負けたくなかった。
日本中から志だけをカバンに詰め込んできたような連中が、入会を許されたあと、今度はトップの幹事長を目指して夢や理念や政策を一糸まとわぬ全人格でぶつけ合う。どこにあれだけの時間とエネルギーがあったのか、連日明けても暮れても議論した。そうし続けないとその場に留まることすら出来なかったから。授業の単位を取るのも容易じゃなかった。

知らない世界をもっと見たかった。先の就職より、今なにか大きなことがしたかった。それが学生の特権だと胸を張れる時代だった。「万里の長城」を緑にしたいと余計なことを考えた。中国に1000本の苗木を運び込み、1ヶ月間、各地を植林してまわった。

日本の都の西北では、引き続き野次も灰皿もぶつけ合い、夜は酒量で競い合い、最後は校歌を歌いながら、大学3年の春、雄弁会82代目の幹事長になった。

自らの財政はひっ迫していた。学費と食費と下宿代も工面しなきゃいけなかった。
大手町の読売新聞本社で夜中バイトした。翌朝の朝刊の新聞「紙」を、芝浦ストックヤードから4トントラックで運び込む仕事だ。新聞になる元の紙は巨大なトイレットペーパー。1個の幅は1.6m、直径は1m、重さは800kgもあって、車並みだった。力士が鉄砲柱に向かうように、ひたすら必死に転がし運び続けた。きつかったけど、労働の後の本社の大浴場のお風呂は箱根の温泉より気持ちよかった。深夜3時に自転車で江東区海辺の下宿に帰る頃、早くも新聞は刷り上がり、軽トラが軽快に各地の販売店へと散り出していた。

単位が足らず1年間留年。結局、学費も1年分の70万円がどうしても払えず除籍退学。悔しくて社会人になってから払い込み、今は晴れて中途退学になったが。



民間企業勤務など ~ 議員秘書へ



その頃、まだバブル景気は続いていたから、それでも現在の(株)インテリジェンスに中途入社。広告営業を3年以上やって、会社でも認められる様になった。
この頃『丹波と山瀬のパニックテレビ!』というカップリング番組に出演。人前に出るのはキライじゃなかった。ちなみに、司会は前宮崎県知事・東国原さんで、素人の私のボケも完璧なツッコミでひろって盛り上げてくれた。

1993年の春、日本に初めてプロサッカーリーグ「Jリーグ」が開幕する。
子どもの頃、サッカー選手になりたくて、テレビ東京『三菱ダイヤモンドサッカー』にかじり付き、世界の一流選手のプレーに興奮した。特に好きだったのはアルゼンチンの選手たち。抜群のボールコントロールと一瞬の突破力に魅了された。そして何より、試合開始直前のスタジアムを覆う大量の紙吹雪に胸躍らされていた。
それを思い出してしまった。居ても立ってもいれなくなった。日本中のスタジアムをアルゼンチンのようにしたい。起業なんて立派なものじゃなかったけど、夢は大きく大量の「紙吹雪」を製造。しかし結局、日本には定着せず夢は散った。部屋には、大量の在庫だけが残った。

ボットン便所で掴んだあの剣の刃はこぼれていた。浪人や中退や失恋や失業で。
これまでの高楊枝な生き方を捨てて、普通自動車二種免許を取ってハイヤーの運転手を始めた。
寝床は新橋のガードの真下1mの所にあって、その下が立ち飲み屋という場所だった。手を伸ばした天井のすぐそこに新幹線や在来線。轟音と地響きの闇の中、静かにここで「夜明け」を待とうと心を定めた。そうすると色んな物が見えてきた。

当時、この業界は元タクシーのベテランドライバーが多く、乗せてきた名前も顔も分からないお客さんたちの様々な人生模様をよく聞かせてもらった。職場の人たちと釣りに行ったり、ボーリングをしたり、誰かの家で安い焼酎をしこたま飲んだり、そんなひとつひとつが楽しかった。
人生の先輩たちは、シワがいっぱいあった。出会いも別れも喜びも悲しみも、人の情けも醜さも刻んできたシワが。6年間交わってよく見えてきた。言葉が巧みでも頭が良くても、心にこうしたヒダがなければ、人と人は交わらない。「巧詐は拙誠に如かず」という。天知る地知る我知る人知る。チルチルミチルが幸せの青い鳥を家で見つけたように、私もこのガード下で見つけた。そして、それが私にとって、スサノオが剣の刃をこぼした後にヤマタノオロチの中に見つけたというクサナギの剣だった。

2000年の夏、沖縄でサミットが開催される。
私はその会社からなぜか沖縄に派遣され、プーチン大統領の一団に加わった。琉球の栄華・首里城で行われた主要国首脳晩餐会。
安室奈美恵さんが『ネバーエンド』を唄った翌日、那覇から名護のプレスセンターに向かう高速道で、前の車が見えないほどの激しいスコールに見舞われた。20分以上続いただろうか。そのあと思わず息を呑んだ。
視界が開けると道のまっすぐ先に現れたのは、見たことのない大きな虹と太陽。そして、真夏にまるでダイヤモンドダストのような水蒸気の一面の輝き。この世のものじゃなかった。

自然と「もっと世のため人のため家族のために働けますように」と手を合わせた。
何かがめぐり始めてきた。沖縄で「夜明け」を感じたこの年に、大学時代の同期が代議士になり、私もそれから議員秘書の世界へ。



目黒区議会議員へ



代議士秘書として約6年。
最後の1年あまりは、党の政策決定の全責任を負う政調会長の下で活躍。また、各党が激突する各級選挙の最前線で参謀として働く。

そして、2007年。それまでの経験を活かし、目黒区議会議員選挙に初挑戦。1,954票ものご支持を頂き当選。
2011年には、2,180票を賜り2期目の当選。
2012年「維新政治塾」第1期卒業。
2015年には、1,582票を賜り3期目の当選。

2016年、都市環境委員長。東京維新の会 政策調査会長。